新米教師だった頃、流暢に話せない学生の話を、途中で口を挟むことなく、しかも、退屈そうな顔を見せることなく聞き続けるのは、とんでもなく苦しい作業で、たった2分我慢するだけで、まるで水の中で2分間息を止めるくらい苦しかったことを覚えています。
3年前にオンラインのシンポジウムやセミナーに参加してみると、楽しそうな表情で講師の話を聞いている先生も学生もほとんどいなかったので、ああ、ダメなのは自分だけじゃなかったんだ…と気づき、ホッとしました。
若い頃、自分はおしゃべり男子だったのですが、話術を磨けば磨くほど他人の目が冷ややかになっていくのを感じていて、それに反発するかのようにさらに話術を磨いてゆく職人人生を31歳のときに突如放棄し、あきらめ人生の中から聞き役に徹する選択をしたとたんに人から信頼されはじめました。なんという皮肉。「これまでの人生はいったいなんだったのだろう?」と悔やみ、小学校から人生をやりなおしたいと思いました。
最初、もう手遅れだと思って絶望感に打ちひしがれていましたが、中国での教師生活も半年もしないうちに自信が噴水のように湧き上がってきて、この世界はなんてビューティフルなんだろう…と思うようになりました。
どんなにつまらないと感じていても、楽しそうな表情で学生の話を2、3分我慢して聞いていれば、学生も「楽しんで聞いてもらえているぞ」という喜びの表情に変わり、ノリノリで話してくれるようになりました。そして、どんなに地味で目立たない学生も、例外なく、みな、びっくりするような面白エピソードがいくつもあり、ひとりひとり、間違いなく、面白い人間だとわかるようになりました。波の立たない池に「楽しそうな顔で聞く」という石を投げ込むと、その2、3分後には、楽しい時間が待っていたのです。
新米の頃は勉強のため、ほかの先生の授業をたくさん見学しましたが、学生のネガティブな反応に一瞬で険しい表情に変わり、学生のポジティブな反応にはすぐにリアクションを取らない先生が少なくなかったです。学生のネガティブな反応に笑顔で対応すると、教室が穏やかな雰囲気に変わり、学生のポジティブな反応にたいして、間髪入れずにリアクションをとると、本人だけでなく、ほかの学生の目も輝き出しました。
これが、わたしの授業の組み立て方です。
「授業をやっていて楽しい」とおっしゃる先生は、みな、それができていると思います。でも、他の先生にそのやり方を教えることをあまりしないようですし、それがうまくできず、どうみてもグダグダな授業をやっている先生を見ても「それもひとつの方法ですね」とやさしくおっしゃっていました。
よくこんな話を聞きます。悪の報いが熟するまでは、悪いことをした人にも幸運なことが訪れますが、報いが熟したときにはとんでもない災いに襲われます。同じように、善の報いが熟するまでは、良いことをした人にも災いが襲いかかりますが、報いが熟したときはとんでもない幸運が訪れます。
この世のできごとを善悪だけで表現するのは無理がありますが、ひまわりの種を植えるとひまわりの花が咲くように、グダグダな授業をやり続けていたら、そのうち報いが熟するときがくると思います。それに、興味ある話なら楽しそうに聞き、興味ない話ならつまらなそうに聞くというのは、誰でもできて、努力がいりません。もし、人の話を楽しそうに聞くという精一杯の努力をして、退屈そうな表情を一瞬も出さずにやり切る日々が送れるようになったら、きっと、グダグダ授業がストップできて、どの先生も輝き出すんじゃないかって思います。