4月に募集を始めて6月にスタートしたスピーチ部でしたが、5ヶ月の練習を経て、広野町主催の発表会に間に合いました。本番では、子どもたちの度胸の良さが奏功して、結果は大成功だったのですが、本番前日ギリギリまで、どうなるかわからない状況でした。
小学校5年生と6年生から募集したのですが、結局は『学年問わず』ということになり、1年生のうちの娘も参加することになりました。低学年の子どもたちにとっては、1時間椅子にじっと座ることさえ難しい時期かもしれません。夏の暑い日は、スピーチ練習中、エアコンの部屋の床に寝転がっていました。手足をそわそわ動かす。じっとしていない。順番を待つことが困難、などなど。常に、三歩進んで二歩下がるという状況でした。しかし、5、6年生は、そんな状況だったからこそ、責任感が生まれたのか、成長具合はかなりのものでした。
私は月一回の頻度で出張していたので、練習は月3回。それでも、テーマが深刻であるほど、子供たちは真剣に取り組んでくれました。ですので、私にとっても木曜日は楽しみでした。もの静かで声量がもの足りないある生徒は、親御さんも心配していましたが、本人にもお母さんにも「焦らないで」と言い続けました。本来、短期集中型で、勢いに乗ってみんなで壁を乗り越えるスタイルの授業が得意ですが、スピーチ部ではのんびりやっています。じっとしていられない生徒のお母さんは、「皆さんに迷惑をおかけしていないか」といつも心配していました。そういう理由で、大勢の人の前で堂々と発表ができたらOK!ではなく、声が出せたらもうOK!という感じでした。
最近は大好きなアドラー心理学ではなく、ユング心理学『生き方は変えられるのか』を勉強しています。生き方を変えるときは、自分で変えたいときではなく、変えなければならないとき、それは偶然外側からやってくるそうです。
中国の超一流大学の学生たちに授業し、年がら年中彼らとともに過ごすことで、確かに私の生き方が変わりました。教え子たちも、自分たちとはまったく違う人生を歩んできた人間が、エリート街道まっしぐらの自分たちより堂々と生きている姿を見て、衝撃を受けたことでしょう。
そんな彼らとの日々を10年で終わらせたのは、とんでもない僻地へ講演に行ったのがきっかけです。早朝6時に到着、そこに先生方や学生たちが集まっていて、6時半から講演会が始まりました。講演が終わり、バスが出発するまで、何百人もの学生がバスを取り囲み、大声をあげ続けてくれていました。学生たちが叫んでいる姿に、なんだか感動しました。
その後、日本国大使館の職員の方が「日中友好イベントに行ったら、現地の大学生にあなたのことを聞きましたよ」とおっしゃったので、「中国のどんな田舎町にも行かなくちゃ」と考え始め、どこへでも飛んで行くことに決めました。中には、「大都市に学生や先生を集めて、そこで講演をやれば良い」とおっしゃる方もいましたが、今のようにズームもなかったので、行けるものなら現地へ行こうと思っていました。
そのうち、心を病んだ大学生たちが、私の元に集まるようになりました。私は最初、彼らにどんな言葉をかけたら良いかわかりませんでした。それで、しっかり勉強しなきゃと思って、本を読んだり、専門家の先生に質問をしたりするようになりました。勉強はかなり大変でしたが、発達障害と呼ばれる子供たちへの声がけにも、特に心を病んでいない人たちへの声がけにも役に立っています。
偶然外側からやってくるものによって、自分の生き方が変えられるというのは、それらの経験によって理解できます。偶然外側からやってきたものによって、自分の生き方が変わるというのは、リスクも大きく、せっかく作り上げたお城を捨てることにもなるので、ある意味、辛いことかもしれません。
でも、偶然外側からやってきたものを受け入れると、次のステージが待っていることは確かなようです。しかも、過去に学んだこと、やってきた経験が生かされるのですから、気持ちを切り替えて、さっさと次のステージに上がろうと思います。今は、対面で小学生たちにスピーチ指導をしていますが、将来、何千、何万という子供たちに「焦らなくても大丈夫。他人と比べないで、昨日の自分と勝負しよう」と言って、スピーチ指導したいです。
写真:日本全土を駆け巡り、広野町の素晴らしさを広めることに尽力している方が、送ってくださいました。