公開授業を終えました。
ちょうど20年前、鮎澤孝子先生から、国際教養大学のサマーキャンプに誘っていただいた時に、新羅大学の先生方の前で、発音とスピーチについてプレゼンをさせていただきました。それが終わると、「うちの大学に来ませんか」と誘っていただいたのですが、もしその時、「行きます!」と言っていたら、また違った人生になっていたことでしょう。
釜山外国語大学での公開授業を終え、無事にすべてのイベントを終えることができました。これもすべて、いつも応援してくださるみなさまのおかげです。ほんとうにありがとうございました。
「笈川さんは、やりたいことができて良いですね」とたまに言ってもらいますが、本当は、野球をして、メジャーリーグで大谷翔平選手のようにホームラン王になりたいですし、M1グランプリの審査員にもなりたいです。でも、そうなるための努力もしていませんし、努力をしたところで、10年後もホームラン王にはなれないでしょう。
20数年前、北京にいたときは、どうすれば世界を自由に駆け巡る日本語航海士になれるのかわからず、まずは自分のできること、目の前にいる学生のサポートに専念しました。そのうち、所属先から「貢献してくれているね」と言ってもらえるようになり、北京市のほかの大学からもたまにお声がけいただけるようになって、それからまたずいぶん時間が経ってから、北京以外の都市の大学からお声がけいただけるようになりました。その時、思い切って、大学の先生をやめて、中国全土を飛び回るようになりました。
そうしているうちに、日中友好の架け橋だねと、国から表彰していただきました。その頃、世界各地を駆け巡りたいという気持ちを国際交流基金の先生に話したところ、「各地の先生と連絡を取ってみれば?」とご助言をいただいたので、片っ端からEメールを送りました。5名の先生方からお返事をいただき、ついに中国を飛び出したのが、9年前です。10年前までは、世界に出るのは、夢のまた夢でした。
一つ一つを大事にして、うまく行って信用してもらったり、うまく行ったけど、信用してもらえなかったり、うまく行かなかったけど、信用してもらえたり、うまくいかなかったから信用してもらえなかったりして、正しい答えは今でもよくわかりません。
日本語を世界に普及していると、文化庁長官から表彰していただいたときは、もしかしたらそれがゴールで、それまでしてきたことに蓋をして、おしまいの合図だったのかもしれないと思いましたが、その後もずっともがいています。
今もまだもがいているということは、いまはまだ見えない、なにか素晴らしい世界が待っているということかもしれません。