今日は、日中国交正常化の日ですね。
学生たちから信頼されるようになり、「実は、わたしのお祖父さんは日本兵に殺されました」「お祖父さんは子供の頃、日本兵に殺されました」と言われることがありました。
「わたしたちの先祖があなたのご家族にひどいことをしてしまい、本当にすみませんでした」と言うと、学生の表情が笑顔に変わり、「いえ、それはもう過ぎ去ったことです。これからは中日友好(日中友好)で行きましょう」という返事をもらいました。まるで、なにかの儀式のようでした。
中国では、討論して、平行線を辿るものがあることも知りました。政治、歴史の話題ならなおさらです。わたしは中国で暮らした22年間、中国人の友人と政治、歴史について、話したこともなければ、授業中にそれらを話題にしたこともありません。
「わたしのお祖父さんは子供の頃に日本兵に殺されました」と聞いて、「あなたのお祖父さんが子どもの頃に日本兵に殺されたなら、あなたはどうやって生まれてきたの?」などと話したこともありません。言うべきでない言葉は引っ込めたほうが良いですよね。相手を論破してスッキリすると話す日本人の友人もいますが、討論の最後に互いに励まし合い、褒め称え合うという習慣が、その友人にはなかったのかもしれません。
人から相談を受けたら、ただ、「うん、うん、そうか」と相手の話しを聞くのが良くて、上から目線でアドバイスをしてはいけないというのも、儀式的かもしれません。平謝りも、儀式的要素が強いのか、上司に説教されているときに反論しなければ、説教はすぐに済みます。
若い頃、正しさを求めるとうまく行かなくなることが多かったです。また、正しさを求め、うまくいかなくなった同僚の先生を見てきました。
日本語の先生から「お前の発音は悪い!アクセントがメチャクチャだ!」と正しく指摘された学生が日本語学習をやめるのはほぼ確定です。
小学生の娘がフライパンからお皿にハンバーグを移す時に、ステンレス台の上にこぼしてしまっても、見て見ぬフリをして、出てきたハンバーグを見ながら「うまそう!ありがとう!」と言ったほうが良いと思いますし、仮に冷凍のハンバーグをチンして、きれいなお皿に盛り付けただけだと知っていても、「うまそう。お料理、上手なんだね」と言ったほうが、その子は、料理上手になると思います。
そういった経験から、授業中に、学生同士互いに褒め称え合うことを求めています。
ひとりに褒められただけでもモチベーションが上がります。周りが必ず自分の良いところを見つけ、それを口にしてもらえる安心感があれば、誰だって日本語の勉強が楽しくなります。
でも、これって、誰かが考えたシステムでもなんでもなくて、たとえば公園でスケボーの技を競い合っている若者が、ほかの友だちの新しい技が決まるのを見て、自分のことのように喜んでいます。オリンピックのスケボーもスノボーも同じで、「自分が一位、やった!」ではなく、誰かが勇気を出してチャレンジして、成功したら、その人をみんなで褒め称えるというのは、よくあることです。あのシステムを授業に取り入れたら、学生たちはみな、モチベーションを上げて日本語を楽しく学んでくれるようになりました。
ポイントは、「ポジティブフィードバックの基本的な言い方と使い方」です。あとは、「褒められたときの返し方」です。面接対策もそうですし、会話のやりとりもある程度そうかもしれませんが、どの場面でも、儀式的要素は入っていると思います。
儀式的要素は、たくましく生き抜くためにしっかり学びたいものです。親子間でも師弟間でも大事にしたいと思っています。
さて、今日は福島大学にやってきました。