僕が受けてきた昭和の教育は、「教える」「教わる」という構造が中心で、教師からの一方的な発信が多く、児童・生徒や学生は、ただ座って話を聞いているだけ、という場面が少なくなかったと思うんだ。
そのため、自分で考え、問い、批判する力が育ちにくいと言われていたよ。今の、批判精神が旺盛な若者たちから見れば、信じられない話かもしれないけど。大学の先生たちが口を揃えて「批判精神が大事だ」と言っていた時代だよ。
最近は、「一緒に考えること」や「自分で調べる姿勢」が大切だと言われるようになったよね。それ自体は、良い流れだと思うよ。ただ同時に、批判が過剰になりやすい危うさも感じているんだ。SNSを見ていると、一方的な発信ではなく、多方向のやりとりが当たり前になったね。その結果、間違いが発見されやすくなり、誤解も生まれやすくなって、批判が過剰に広がってしまう状況も起きているね。これは、ある意味、自然な流れだと思うし、逃れられないことだと思うよ。以前は良い立場の人が上から目線で一方的にほかを批判していたけど、今ではほかの誰かからの批判に丁寧に対応しなきゃいけないから、偉そうな態度をとる人が一気に減ったし、上手に対応できる人が増えたように見えるよ。
そんな今、僕たち教師に問われているのは、批判力を育てることそのものではなく、その「強さ」と「向かう先」をどう調整するかということなんじゃないだろうかって思う。
疑わない若者たちも、疑いすぎる若者たちも、どちらも、結果的には学びから遠ざかってしまうから。
オールドメディアが盛んだった頃、主役はメディアだったね。学校の授業でも、主役は先生だったと言えるかもしれない。一方、ニューメディアの時代では、主役は「受け手」だね。そして今の教育の主役も、児童・生徒、そして学生だと思う。
だから僕は、「信じろ」とも「疑え」とも言いたくない。そうではなく、考え続ける姿勢そのものを支えたいと思っているよ。
対立する意見の中から、自分で判断してどちらか一方を選ぶことが大事だと言われているけど、大切なのはバランスだと思う。そのバランスを、教室という安全な場で実際に体験する。それが、今、僕たち教師に求められている役割なんじゃないかと思う。
地元の日本語教育のサポートをしてきます。スタートラインに立つまで5年かかりました。