来月、大阪へ行けることになりました。
東京中央日本語学院大阪校と東京校で講演することになりました。
お笑いを目指していた頃は、「関西人に認められたい」と思っていて、若い頃は、完全に「それだけ」でした。瞬発力というか、頭の回転の速さというか、言葉のチョイスというか、そういうところが自分の長所だと勘違いしていましたが、中国に渡り、四六時中、学生たちと過ごす生活が始まって半年が過ぎた頃、お笑いの才能が枯れ切ったことを自覚しました。ただ、夢をあきらめ、面白いことが言えなくなり、自分の価値を全否定した代わりに、学生たちがわかる言葉を選んで話せるようになっていました。ハガレンの等価交換じゃありませんが、誰にも奪われたくなくて、頑なに守ってきた宝物を、そっと手放した感覚を、いまでも覚えています。
ニュージーランドの荻野先生が、玉置浩二さんが歌う『メロディ』の「あの頃は、なにもなくて。それだって、楽しくやったよ」という歌詞を口にされると、涙が出ます。あの頃は、本当になにもなくて、学生たちは、まだ日本語を上手に話せなくて、でも、みな、ひたむきで、誰か一人のたわいもないひとことを、全員が理解できた瞬間、大きな笑いが起きました。別に面白くなくても、わかっただけで、人は笑うって、初めて知りました。
もし、教え子たちが活躍したら、自分もなにか、できるようになるんじゃないかと思って、願かけのように、本気で祈りました。父が若い頃、炭鉱で働いていた話をよく聞いていたからか、中国での最初の10年は、まっ暗闇の中、顔を真っ黒にして、石炭を掘っているイメージそのままで、本当になにもなかったですが、学生たちと笑いの絶えない日々を送っていました。
また大阪に行けるのか…と思うと不思議な気分になります。若い頃と違って、笑いを取りに行くわけではありませんが、日本語教育の世界で最大限に力を発揮してもらえるよう、大阪人の素晴らしさについても話したいと思います。