「うちの学生たちはレベルが低いから、刺激をください。ご招待いたします」ということで、2日連続で、北京の大学生向けに模擬授業をしました。
学生たちが発言している最中、息継ぎするタイミングで、こちらが「すごいね」「その調子」などの励ましの言葉をかけると、どの学生も声に力がみなぎってきます。例外なく誰だって自分のことが大好きなので、先生や友だちに励ましてもらいたいでしょうし、褒めてもらいたいでしょう。でも、わたしの先生がわたしたちにしてくれなかったように、多くの先生も、この授業を自分の目で見ても、その後、自分の教え子たちを励ましたり褒めたりすることがなかなかできないでしょう。では、学生を励ますことができない先生は、悪い人なのか?といえば、けっしてそうではなく、反対に、ひとりひとりどの先生も本当に良い人で、学生のことを本気で想っています。
毒親もパワハラ教師も責任感の塊で、だからこそ、毒親にもなるし、パワハラ教師にもなります。本気で我が子、教え子のことを考え、どんなことでもできちゃうのですが、褒めたり、励ましたりすることだけは、なかなかできないようです。
他人の良いところに注目するのが良いと言われていますし、頭ではそうしたいと思っているのに、自分がそうされて来なかったから、ついつい他人をやっつけてしまう……。社会全体がこんな感じだから仕方がないのでしょう。
わたしが他人を励ましたり、褒めたりできるようになったのは、誰かに認められたい、褒めてもらいたい、素晴らしい人生を生きていきたい、などという考えを、あきらめたからです。
だから、恥ずかしげもなく、他人を励ますことができるようになりました。
不思議なもので、人生をあきらめ、人を励ましているうちに、実績が積み重なってくると、再び人に認められたいという欲が湧いてきます。しかし、いざとなったら、誰かに認められたい、褒めてもらいたい、素晴らしい人生を生きていきたいという気持ちがスーッと消えていくので、その点においては最強だと思います。
べつに儒教がいけないとは思いませんし、親孝行や目上の人を敬うことが良くないとも思いませんが、上の人に認められたいとか、餌をもらう前の犬がおあずけするみたいに我慢することに慣れてしまっているとか、そういうのが強すぎて、苦しむ若者が多いのが、東アジアの特徴かもしれません。この状況が変わり、互いに励まし合う世の中になれば良いなと思いますし、自分のできる範囲でそうしていきたいと思います