会津若松国際交流協会の総会日で、一年間待っていてくださった皆さまに、講演をしました。
日本語教師になってから、最初の5、6年は、人前で話すことが仕事になるとは思っていませんでした。
授業も放課後も、教室の一番後ろに座って、前で発表する学生に拍手を送るのが自分の仕事だと思っていました。
放課後は、スピーチ練習もしましたが、大半は、学生の発音を聞いて「そう」「違う」と答えることに時間を費やしました。慣れていない人なら、数分で頭が爆発してしまうと思います。我慢強く、学生たちの発音に耳を傾けられたのは、「自分には人並みに人生を楽しめる価値はない」と思っていたからで、31歳までに自分に降りかかってきた不幸や災難は、自業自得だと思っていたからです。
5、6年は、夜2時に目を閉じて、朝6時から学生たちとジョギングをしていたので、明かりを消したら、次の日は起きられないと思い、明かりをつけたまま寝ていました。たまに帰国して、三泊四日くらい実家にお世話になりましたが、食事以外はずっといびきをかいて寝ていたので、両親は「ただごとじゃない」と思っていたそうです。
顔が似ていた叔父が、36歳の時に他界したので、なんとなく、自分も36までの命だろうと思っていました。ですから、37歳の誕生日を迎えたときは、「あれ?なんで?」と思いました。当時、学生たちから「なんの得もないのに、なんでそんなに頑張るの?」と聞かれ、「36歳までの命だと思うし、そこまでは頑張ろうと思ってる」と答えていました。
何人かの学生が「先生はわたしの守護霊です」というので、「守備の要の守護神のことでしょ?」と言って笑いました。でも、いま思えば、成仏できない浮遊霊みたいなものだったのかもしれません。
発音・スピーチ指導は、完成するのに、5年かかりました。そこでエンジンがかかり、中国各地を巡る旅をスタートさせるまで、さらに5年かかりました。
でも、遠回りはするものです。なぜなら、自分も要領が悪い人間の一人だし、ほかに要領の悪い人と一緒にいても、待つことができるからです。
10代20代の頃は、学校にいるスーパーマンに憧れました。でも、30代で自分がスーパーマンになるのをあきらめ、学生をスーパーマンにすることにハマり、40代で、勉強が苦手な学生たちに囲まれ、50代で帰国したら、人を待つことができるようになっていました。
もちろん、うまくいかないことは常にありますし、自分にとって理想のペースもありますが、待つことができるというのが、最大の武器になっています。
昨夜は、温泉つきのホテルを予約していただいたので、ひとりゆっくり休ませていただきました。でも、こんなに素晴らしい夜を当たり前だなんて、思ってはいけませんね。