つまらない授業ほど、説教が長くなるのはなぜか

――「教室を支配すること」と「子どもを伸ばすこと」は同じではない
以前から、学校の先生による長い説教に、不思議な気持ちを抱いていました。
例えば、ある生徒が遅刻をした。宿題をしてこなかった。すると先生が突然、大きな声で怒り始める。
「君はみんなの時間を奪っているんだ」
そう言いながら、10分、20分、ひどいときには40分近く説教を続ける先生もいました。しかし、正直に言えば、普段の授業より、先生が誰かを説教している場面の方が面白かったです。説教は突然始まった「事件」ですから。
先生の声が大きくなる。教室が静まり返る。授業に集中していなかった他の生徒も集中し出す。先生と生徒のやり取りが始まる。次に何を言うのか分からない。
それは、街を歩いているときに、どこかの恋人が大喧嘩をしている場面に偶然出くわしたときと似ています。
じろじろ見てはいけない。でも、気になる。街ならそのまま通り過ぎなければならない。でも、教室は違う。生徒は席を立って外へ行くことができない。つまり、目の前で起きている「事件」を最後まで見ることができる。
だから「今日は面白いな」と内心感じていました。この経験を思い出すたびに、1つの疑問が浮かび上がります。
もしかすると、授業に自信のない教師ほど、説教が長くなるのではないか。
つまらない授業をする教師が必ず説教をするわけではありません。また、厳しく注意することが必要な場面もあります。しかし、人間の心理として考えると、十分あり得ることだと思います。
教師が一生懸命説明しても、生徒がこちらを見ない。質問しても反応が薄い。眠そうな生徒がいる。私語をする生徒もいる。
そのとき教師が、「もしかすると、私の授業が面白くないのではないか」と考えることができれば、授業を改善する方向に向かいます。ところが、それを認めることは、意外に苦しいです。
そこで、「最近の生徒は集中力がない」「やる気がない」「態度が悪い」と生徒の側に原因を求めれば、教師は、傷つかずに済みます。
そして、ある生徒が遅刻した瞬間、「お前は何を考えているんだ!」と大声を出す。すると、それまで教師の話を聞いていなかった30人、40人の生徒が、一斉に教師を見る。教室が静まる。全員が教師に注目する。
ここには、皮肉な構造があります。
授業では集められなかった生徒の注意を、説教なら一瞬で集めることができる。
教師にその自覚がなくても、「教室を支配できた」という感覚が得られます。
誰にでも、自信を失ったときに強がってしまうところがあります。私は以前、売れない漫才師をしていました。漫才の舞台は残酷です。自分が面白いか、面白くないかが、すぐ分かります。
こちらが渾身の一言を言っても、客席が静まり返る。笑ってほしいところで笑いが起きない。そして漫才が終わり、自由に話してよいフリートークの時間になると、何も言葉が出てこない。
毎回、「自分はこんなにも面白くないのか」という現実を突きつけられました。舞台では、ごまかすことができないからです。
しかし教室では、生徒は授業がつまらなくても席に座っています。面白くなくても帰ることができません。だからこそ、教師は自分の授業が本当に届いているのかを、自分自身で厳しく見なければならないのだと思います。
そして、教師が大切にすべきは、「教室を支配すること」ではなく、「子どもを伸ばすこと」だと思っています。
遅刻した生徒がいたなら、「今日はどうしたの?次から気をつけよう」で終わっていい。宿題を忘れたなら、「いつまでならできそう?」と聞けばいい。
必要な注意を1分で済ませ、残りの39分を全員の学びに使うことができます。
もし「君はみんなの時間を奪っている」と言いながら40分間説教をしたなら、一番多く全員の時間を奪っているのは教師になります。
教師の力量は、どれだけ怖い顔ができるかでも、どれだけ生徒を静かにさせられるかでもないと思います。
子どもが前よりできるようになったか。昨日より少し自信を持てたか。授業が終わったとき、「もう少し勉強してみたい」と思えたか。
そこに教師の仕事の本質があると思います。授業に自信のある教師は、おそらく長い説教を必要としません。なぜなら、その教師にとって最も大切なのは、
「自分が正しいと分からせること」ではなく、「目の前の子どもを伸ばすこと」だからです。
そして、もし生徒が授業を聞いてくれないとき、「この子たちはやる気がない」と決めつける前に、「私は、この子たちが聞きたくなる授業をしているだろうか」と自分に問いかけることもできます。その問いを持ち続けられる教師こそ、本当の意味で強い教師なのではないかと思っています。