(振り返り)出発2日前にスズメバチに足を刺され、痛みに耐えている間、たった1秒の安らぎもなく続いた激痛の中、「もしこの痛みが引いたら、どんなことでもします」と何度も神様に祈りました。ですので、講演マラソン中の多少の苦労は何でもありませんでした。
9月27日
始発で広野駅を出発、昼過ぎに成田空港に到着。便が遅延し、夜、桃園空港に到着。急いでタクシーに乗り込み、台湾致理科技大学へ。津田勤子先生が事前に会場を温めてくださっていたので、ワークショップは大変盛り上がりました。致理科技大学の先生方、学生たち全員から歓迎を受け、イベントが終わると、すぐに会場を後にしました。チェン先生が、自家用車で空港まで送ってくださったおかげで、遅刻せず、ウィーン行きの便に乗り込むことができました。
早朝に到着しました。一人で海外を回る際は、ホテルの部屋の鏡の前でリハーサルをすることがほとんどですが、今回は息子が同行したので、まず、シェーンブルン宮殿へ。その後、地下鉄に乗り、シュテファン大聖堂へ。ウィーン空港で公共交通機関のチケット一日券を購入しました。浅草寺の中見せ通りに似た通りを抜けると、信じられないほど大きな建物が現れ、感動しながら何枚も記念写真を撮りましたが、実は、そこはシュテファン大聖堂の裏側でした。表に出てみると、さらに豪華な建物が現れ、観光客で賑わっていました。パリのシャンゼリーゼ通りのようでしたが、天気が良く青空が広がり、日差しも強かったこともあって、以前見たことのあるパリよりもっと美しく見えました。そこから歩いて2時間、ウィーン大学の会場に着いたのは13時59分。開始1分前で、14時に講演会がスタートしました。ウィーン大学の先生方の他、オーストリアで日本語を教えていらっしゃる先生、国際交流基金からハンガリー日本文化センターに派遣されていた先生もご参加されました。講演後、会長さんのお誘いで、地元の名物料理・シュニッツェルをご馳走になりました。食事後、ウィーン大学の先生が国際バスターミナルへ通じるバスに同行してくださり、無事、ウィーンでの一日を終え、夜行バスに乗り込み、ポーランドへ向かいました。
9月29日
前日、長距離歩行をして足が棒になったので、靴を脱ぐと汗臭く、その日からは、バスの中でもホテルでも靴を縦にして乾かすことにしました。朝6時にクラクフ駅に着き、そこから1時間電車に乗ってアウシュビッツ駅へ。中学に入学してから学園生活になかなか慣れない息子に「命」の大切さを知ってもらいたいと思って、アウシュビッツに連れて行きました。そこでは、ストレートに目に飛び込んでくる大量の髪の毛や靴、カバン、ガス室などに衝撃を受けました。その後、クラクフ駅に戻り、作文コンクールで入賞されたイザベラさんがクラクフの街を案内してくださり、ポーランド料理をいただきました。この日の歩行数は30000歩でした。イザベラさんは、クラクフ空港へ向かう列車の前でずっと手を振ってくれました。ホテルに着くと、スタッフがおらず、部屋の鍵のある場所、鍵の出し方、ドアの開け方など、息子が英語資料を見ながらテキパキとやってくれました。それで、3日ぶりにベッドに体を横たえ、睡眠をとることができました。
9月30日
ホテルを出ると有名な大聖堂がありました。息子と「ここはすごいね」「ここは有名かな?」などと話しながら歩いていましたが、ホテルからベオグラード大学までの道に有名な観光スポットがたくさんあることをあとで知りました。まず、ベオグラード大学のディヴナ先生にレストランでセルビア料理をご馳走していただきました。私が「ご馳走したい」と言っても、「学生時代からずっと日本の方にご馳走してもらっていたから」とおっしゃって、譲ってくれませんでした。ベオグラード大学の学生向けにワークショップをして、それが終わると、参加してくれたほとんどの学生が、「一緒にカフェに行きましょう」と誘ってくれました。そこで息子は、初めて英語でタピオカミルクティーを注文しました。その後、日本語教師を目指し、世界一周をしている若者(小野君)が合流しました。息子はセルビア人のお姉さんたちに可愛がってもらい、銀座通りのような有名な通りで、サッカーユニフォームを選んでもらいました。その日は、みんなで夕食を取り、そこから国際バスターミナルに向かいました。
10月1日
前夜、夜行バスに乗り込み、早朝サラエボに到着しました。始発バスに乗り代え、市街のバス停で降り、そこから歩いてホテルに到着。朝7時だというのにチェックインできました。ベッドですぐに眠り、昼前に起き、サラエボ旧市街にあるおしゃれなレストランでサラエボ大学の宮野谷先生とお食事しました。その後、有名なモスクに入ったり、観光地を案内していただいたりした後、サラエボ大学でワークショップを行い、その夜は全員でボスニア・ヘルツェゴビナ料理をいただきました。夕食会には、日本国大使館の方も同席されていました。サラエボでは、他民族の人たちが喧嘩せずに暮らしていることがわかりました。都心には高層ビルもありましたが、銃弾の跡がところどころで見られました。私はどちらかといえば、サラエボ旧市街の、江戸時代の日本のような街並みが気に入りました。
10月2日
この日は移動日で、夕方まで自由時間。小野君に息子をお願いして、サラエボ観光をしてもらいました。そこに、宮野谷先生と以前大使館に勤務されていたアイラさんも加わり、息子の面倒を見てもらい、この日も、宮野谷先生が、ありがたいことにお昼をご馳走してくださったそうです。私はリハーサルなしでここまで来てしまったので、鏡の前でリハーサルをしながら、想定外の問題が起きた時の対応を考えていました。小野君と息子がホテルに戻ってきたその足で国際バスターミナルに向かい、午後4時のバスに乗り込みました。
10月3日
朝4時にクロアチア・プーラに到着。荷物をバスターミナルに預け、始発バスが出るまで、ベンチに座って過ごしました。この日はあいにく雨だったので、市街のバス停からちょっと歩いただけで、ずぶ濡れになりました。また、荷物を10時間預けたら6000円もかかりました。プーラでは、午前10時になるまで朝食をとる場所もなく、バス停のベンチに座っておしゃべりして時間をつぶしました。午前10時に街が動き出し、スーパーで雨ガッパを購入して大学へ向かいました。このあたりは、ローマ帝国の影響を受けていたそうで、建物もローマに似たものが多く、イタリアン・レストランも多かったです。この日のワークショップでは、日本語学習歴ゼロの学生もいれば、日本語上級者も日本人留学生もいて、普段のリハーサルだけでは対応できない難しい条件のもと、ゼロ初級の学生には、クロアチア語でスピーチしてもらい、上級者の学生に通訳してもらうなど、これまでにない取り組みをしました。この日は、以前からお世話になっているイレーナ先生が前日に出張が決まり、代わりにドラナガ先生が対応してくださいました。人前で話すと緊張するのは世界共通、堂々とスピーチしたいというのも世界共通の思いらしく、学生たちは皆、真剣に取り組んでくれました。イベント終了後、ドラナガ先生がカフェに連れて行ってくれました。夜、リュブリャーナに到着し、大学近くのホテルに行くと、またもやスタッフがおらず、あれこれ手を尽くして部屋に入るまで1時間。毎回大学近くで一番安く泊まれるホテルを予約しますが、その場合、夜8時を過ぎるとスタッフが帰宅して、私たちがホテルに着く深夜には、誰もいないケースがほとんどです。WhatsAppで連絡しても応答はなく、直接電話をしたらすぐにつながりました。
10月4日
深夜到着早朝出発というスケジュールでしたが、息子は安宿にもバス移動にも文句を言うことはなく、最後までついてきてくれました。この日はリュブリャーナ大学の守時先生が歓迎してくださいました。まだ夏休み期間中にも関わらず、たくさんの学生、そして日本人留学生を集めてくださり、朝食をご馳走してくださいました。この大学には図書室があり、学生たちは日本の書籍をもとに日本語で卒業論文を執筆されているとのことでした。そのほか、本の紹介『ビブリオバトル大会』を実施されている大変有名な守時先生のそばには、積極的に挙手する学生が多かったです。イベント終了後、学生たちが街を案内してくれて、楽しい昼食の時間を過ごしました。「国際バスターミナルまで自分たちでいけます!」と言っても、途中までついてきてくれました。セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニアというバルカン半島4カ国を巡り、人情味あふれる若者が多いと感じました。
10月5日
ハンガリー・エルテ大学の小野先生がシンポジウム会場近くのホテルを予約してくださったおかげで、朝7時半までぐっすり休むことができました。今回、スロバキア・コメニウス大学の橋本玲奈先生から招待していただいたこの欧州講演ツアーは、その後、小野先生に半年余りの間、たいへんお世話になりました。小野先生は今年のハンガリー日本語教育シンポジウムの担当者で、基調講演の機会を作っていただきました。この日は「ワークショップをしてもらいたい」というリクエストがあり、台湾とバルカン半島での4回のワークショップの総決算という感じで、イベントは大成功でした。また、小野先生の息子さんは、以前からうちの息子とビデオレター交換をしていて、今回、小野先生の息子さんから紹介してもらった『英語物語』というアプリで、最近うちの息子は英語学習に燃えています。この日は小野先生がシンポジウムを取り仕切ってくださり、内川先生、若井先生、佐藤先生と9年ぶりに再会を果たすことができました。内川先生は、私とヨーロッパを繋いでくださった方で、前回の講演会ではご主人に通訳していただきました。この夜、小野君と息子と三人でブダペストの夜景を見ました。9年前、内川先生に夜景を見せていただいた際には、「自分のようなものがこんなに美しい夜景を見て、本当に良いのだろうか」と考え、不安になりました。
10月6日
この日は二度目の移動日で、小野先生がドナウ川クルーズを予約され、食事までご馳走になりました。小野先生とは9年前に出会い、その後、子供との付き合い方に悩むパパ友としてお付き合いさせていただいています。欧州に来てから毎日2万歩くらい歩きましたが、この日も新記録を更新しました。この日、国際バスターミナルからバスが出発してもしばらく小野先生と息子さんが手を振っているのを見て、感動しながらブダペストを離れました。夜、ブラチスラバに到着すると、橋本玲奈先生が笑顔で待っていてくれました。コメニウス大学が用意してくださったホテルはキリスト教系のホテルで、私たちの部屋の正面にお祈りの場所がありました。そこでの3日間、私たちはお祈りの場所を通り過ぎる前に、一度両手をギュッと組み合わせ、お祈りしました。家では、神棚に向かって二礼二拍手一礼をして、それが終わると仏壇の前で合掌して、南大師遍照金剛(弘法大師空海に帰依する)を七度唱え、父と曽祖父母、祖父母、二人の叔父の戒名を七度唱えるのを見ている息子は、「パパは誰にでもお祈りするね」と言いました。
10月7日、8日
スロバキアでのワークショップの総決算として、最終日にビジネス・プレゼン大会とアニメ・アフレコ大会の2つのイベントを行うという、クオリティとスケジュールを同時に考えなければいけない2日間となりました。橋本先生は、大学で教鞭を取りながら、スロバキアで最も高いレベルの通訳をされていて、9年前、講演会をさせていただいた際、心から喜んでくださった方です。初日の午前中は、学生たちに自信を持って話してもらうため、ポジティブ・フィードバックを互いにし合って、どんな質問にも、理由とエピソードを交えて話すトレーニングをしました。午後は、日本人と同じリズム・スピードで話し、難しい話題にも自分の意見が言えるようにするトレーニングをしました。これは、最終日の2つのイベントを即興で実施するための基礎となります。最終日の午前、即興でプレゼンするテクニックにしたがって訓練を行い、最後の時間にグループに分かれ、それぞれプレゼンテーションをしてもらいました。午後は、発音・アクセントを重視した訓練を経て、最後の時間にグループに分かれ、それぞれアフレコを披露してもらいました。この2つのコンテストに息子も参加しました。息子はどの国でも毎回スピーチをしてくれました。「小さな男の子が堂々とスピーチできるなら、自分でもできる!」と、会場に集まってくれた全員に思ってもらうためでした。おかげさまで、発表が終わると、互いにポジティブフィードバックをし合い、自分たちの努力に対するねぎらいの言葉を聞いて、明るい明日へ向かうのでした。全員がびっくりするほど大きな声で発表していたのが印象的でした。この成功は全員が力を合わせた結果で、誰かのおかげではなく、全員で作り上げたイベントだと言えます。無事に任務を終え、橋本先生がスロバキア料理をご馳走してくださり、久しぶりにワインをいただき、楽しい夜を過ごすことができました。また、9年前赤ちゃんだった娘さんがすっかり美しいレディになっていました。
10月9日
今回のツアーの最終地点・チェコのブルノにあるマサリク大学でのワークショップに向け、バスに乗り込みました。大雨の予報でしたが、青空が広がり、たいへん美しい1日となりました。13日で12イベントを行いましたが、総じて、天候に恵まれた幸せな欧州講演ツアーとなりました。最終日は100名を超える学生たちが、まだ50音を学び終えていないと伺っていました。でも、台湾致理科技大学でも同じ状況で大成功でしたし、今回はユラ・マテラ先生が、チェコ語に通訳してくださるとおっしゃったので、自信を持ってワークショップに臨みました。実際、50音もひらがなもカタカナもできなくても、日本語スピーチはできます。全員がスピーチをして、相手のスピーチを聞き、互いにポジティブ・フィードバックをし合いながら、モチベーションを高めることができました。イベントが終わると、まるで自分がスターになったかのように、たくさんの学生たちに囲まれ、記念写真を撮りました。
今回の欧州講演ツアーの振り返りは、同時進行できず、2ヶ月遅れてしまいました。当時は、常にバッグのポケットをまさぐって、「パスポートと財布とスマホがあるかな」など呟きながらチェックしていました。今、パスポートを持っている日本人は17%(6人に1人)だそうです。海外に出たがらない一番の理由は、「治安が悪い」「怖い!」ということで、確かに、慣れない海外で自分の思い通りに行くわけがなく、多少のぼったくりや嫌な目に遭うことは想定内にしたいです。この1年あまりで、アメリカ・カナダを3度、中米カリブ、欧州、韓国、フィジーを2度、東南アジアとエジプトを1度訪問して、いつも心がけていたのは、機嫌良く過ごすことでした。機嫌よく過ごそうとしていたら、決定的な嫌な思いをせずに済むのではないかと思ってやっていました。決定的な嫌な思いというのは、自分の機嫌の悪さが相手に伝わり、相手をムカつかせてしまうことが原因のような気がします。ですから、どんなに理想通りに行かなくても、いつも機嫌良く行きたいと思っています。